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だいぶ荒っぽい描きこみですが……
その後、私の手の型をとっていただきました。
この型をとられる側の体験を一度しておくといいといいと、いつも教えてもらっているK先生とは別のN先生。
この経験は、たぶん決定的に私の考える映像の方向性を示唆してくれた気がします。
以下、facebookにかいたものを張り付けてみます。
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思ったことを書き綴っているだけなので論理的に破たんしている部分がみられると思う。
自分の身体イメージとしての身体の感じ方、捉え方は、多分男の中でも人一倍、主体的である気がしてならない。
前にmixiの方で日記に書いたことがあったけれど、男は人生の節々で身体の変化が女に比べて非常に抽象的で、だから身体の像としての捉え方・感じ方というものに鈍感な印象がある。
それゆえに、男の身体観というものは、非常に主体的なものなのではないかと思うようになった。
自分が男で、そうだからというのもある。
それに比べ女は、身体は人生のイベントのうちに何度も変化するし、内からのイメージというものを受け入れなければならない。さらには、そこに社会的な制度が加わる。脱毛、化粧……
私なんぞ、極端なことをいえば、医者や痴漢に身体をみられたりふれられたりしようものなら、死んでしまう。
身体測定ですら敬遠するレベルだ。
しかし、男の私よりも、身体に対して敏感であれと社会的に構成されてきたはずの、女の方というものは、そんなことを気にしていたら(ショックの有無はどうあれ)、生きていけないから、それを受け入れなければならない。
そうなると、身体というものに対しての自分のかかわり方が、非常に述語的になるのだと思う。
女の強さと現実性は、そのへんに根幹があるのではないか。
気持ち悪い話だけれども、オタクに多いとされる処女幻想は、この男の主体性というものが、ひとつ関係しているようにも思えてくる。
例えば、『クラナド』での出産についての描写は、徹底的に男というものが排除されている。
あれだけ病弱な渚が、「男」の権威がはびこっているはずの大病院には行かず、自宅で出産することを決意する。
そのときに立ち会う助産師さんは、女である。
そして出産のときがくると、男は、夫である朋也ですら外に出される。
男視点でみて、そうとう気持ちのいいものであるように、つくられている。
もとが男向けのエロゲ/ギャルゲの類だからかもしれない。
たちあった助産師さんが男だったら、NTR属性でもない限りは、みていて気持ちのいいものではないだろう。
映像をつくるにあって、一度、男の主体的な論理を、女の主人公に投影して、つくろうとしたことがあったが、ようするに女の主人公が、主体的であり述語的になれず、身体測定なり検診なりの社会的なイベントを乗り越えることができず、自殺してしまう話だった。
あのときはたぶん、主体というものを確立しようとしなければ、やっていけない時期だったのだと思う。
地元の医者には、PTSDと、あとは忘れたけれど他のいろいろだと診断された。
過去に大きな性犯罪にあった時の、トラウマ性、心的外傷後ストレス障害だと。
なるほど、拒食に自傷、無力感に希望の喪失、睡眠障害、集中困難、それをこじらせ併発した幻視に幻聴、首吊りに練炭の自殺未遂、その他もろもろの現象は説明がつくのだろう。
私は自分のイメージというものをつくろうのに必死である人間だから、誰にも何も言えなかった。
しかし暴露するのも治療法の一つだという。
今の医者には症状以外のなにも言っていない。
地元の医者に行った時の、対応に疑問をもったからかもしれない。
私はそこまで物事に対応できるほど器用な術語性はもちえていないのだ。
だから主体という幻想にすがる。
医者に肌をみせることすら拒絶してしまう、肌をみせることが苦手な私が、この前画塾にて右手の型をとられても何とも思わなかったのはなぜだろう。
一枚一枚、ボンドの塗られた紙を手に貼られていく。
自分の身体の形が、摩擦で浮き彫りになっていく。
気化熱で、体の熱が奪われ、ドライヤーを当ててかわかしているのに冷たいという奇妙な体験をする。
切り離すときは、脱皮のような感覚になる。
とれた真っ白な型は、自分の抜け殻のような気がした。
先生たちは型を取りながら、治療に似ている気がするという。
地元の医者に感じた不快、画塾で何事もなく平気だった平然さ、その違いはなんなのだろう。
地元の医者は、私をみずに既存の病名にあてはめ、この薬を飲めば治ると、終始主語的な対応だったのではないか。
画塾の先生は、私の体に一枚一枚紙を貼っていくという、述語性を繰り返した。
述語性によって主体を覆い隠したのではなく、主体が心地よくあらわれることができる環境をつくってくれた、それがよかったのかもしれない。
白い自分の手の型をみるたびに不思議な気持ちになる。
ちょっと脱皮出来たのかもしれない。
だから、みる人が限られているけれども、こんな話ができるようになったのかな。
これから考える土台としようと思う映像の方向性を、物語ではなく演出の方向性を、今一度ぶれずに設定できる気がする。
映像文法と「主語を抹殺した男」三上章さんによる日本語文法を照らし合わせ、その述語的側面から、映像文法について考える、そのときに、主体を消し去ったらいけない。主体が表出できる環境をクリエイトできる映像文法が、求められる。
このときに主体のレベルをどこに設定するのかは、いまだ悩むところにある。
主体を主人公に設定し、彼が映える文法にする、これは簡単である。
主体を観客に設定したときに、問題が困難になる。
観客は主人公に感情移入しますという大前提を揺るがさなくてはいけない、そのためには、感情移入できなかったとか、そういうレベルを超えなければいけない。
感情移入というものは、映像技法によって方向づけられる作り手側の主語的なもので、だから主体を主人公に設定したときの文法は簡単だという気がしている。
だから、主体はきっと主人公にも観客にも設定してはいけないのだ。
ここまでは実感として、今のところある。
ここから場所主体という言葉の自分なりのつかめそうな感じが、最近薄れている。
山本哲士先生のブログを読んだ。
以下、山本哲士先生のブログ、『ホスピタリティの場所【山本哲士公式ブログ】hospitality/place/capital』からの引用である。
「述語的な場所づくりというのは、主体を消し去ることではない、主体が表出しえる環境をつくりだすことだ、それには主体主導と客体依存は消していかねばならない。
述語的な表出とは、団結力でも組織力でもない、それは結果そうなるだけで、相反するもの、非団結、非組織が、同時作用している状態でもある。神の目ではなく、虫の目の動きである。
カナダから、『英語にも主語はなかった』『日本語に主語はいらない』の著者、金谷武洋氏が来たので、お会いした、主語なき日本語論を明示されているが(拙書『哲学する日本』においてとりあげている)、はじめてなのに意気投合した、いまこそ「述語制」の世界表出をしていこうということになった。S+V+Oの、神の目線の言語思考はSOVO(粗暴)になるだけだと、ダジャレする愉快な方であったが、2年以内に、国際会議をやろうということにした。主語・分離思考技術による世界設計をこえていく述語・非分離・場所の世界設計を、提言していくことだ。」
引用終わり。
今読んでいる三上章さんの本が終わったら、金谷武羊さんの本を読んでみようと思う。
「神の目」「神の視点」という表現は、映像でもよくつかわれる。
アニメ『ef』においては、千尋の「かみさまがいじっているみたいじゃないですか」という発言で、自分の物語の終わりを決めて描くというシーンで、メタ的な発言がなされた。
『ef』のあの長まわしの多さと、モンタージュの融合は、ひとつの答えを示唆しているのかもしれない。
しかし、吉本隆明さんが「小説は着飾った服、詩は骨格」というように、私が今やろうとしている、長編映画を服に、短編映画を詩にみたて、映像の骨格を探求していこうという試みには、長まわしは使わないことに決めている。
映像の、とりわけ私が探求したいアニメの骨格は、予算や人員、技術、既存の制度などに述語的にかかわっていた結果、モンタージュというものを無視することはできず、もっと別なところにみいだせるはずだという気がしてならないからだ。
映像の骨格、漠然としていて、難しい。
ただ、もっぱら自分の興味は、ここにある。
長まわしではない何かに、述語制の骨格を、見出したい。
この文章中でも、だいぶぶれたけれど、かきなおすより、このまま思考回路を残しておいた方がいいと思い、そのままにしようと思う。
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身体と、言語と、映像と、美術が、つながっていく気がします。
個のあと時間があったので、花のスケッチをしました。
毎度のことながら、花は苦手ですが、前に指導いただいたところを思い出しながら描きました。
構図はだいぶ失敗しました。
その後、この前お手伝いさせていただいた先生の作品について、インタビュー動画がネットに掲載されたということで、一緒にみました。
とても刺激になりました。
またみかえそうと思います。
その後進路相談です。
映像系の大学院受けてみようと思うのですが、実写に行くかアニメに行くかです。
はやいところ、夏休み中だけでも、親にも相談して画塾の回数をあげて、絵の練習をしまくっておかないと、結果的に選択の幅は狭まってしまうので、準備ははやくしておかないといけませんね。
貴重な日でした。