絵が下手な素人理系学生が自主制作アニメをつくる
もっと探求したいと思い近くの美大予備校へ通う
アニメーションを専攻できる大学院試験を受ける←今ここ
そんな感じでいろいろと迷走するブログです。
ブログのタイトルが定まっていないのでちょくちょく変わると思います。
よろしくお願いします。
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私は怠慢で、まだ直接エイゼンシュテインの作品群をみたことは無いのですが(映研部長としてダメですね)、映画史的なエイゼンシュテインの方向性は知っていて、憧れを抱いていました。
エイゼンシュテインのカッティングの一連の流れを写真でみたりなんだりして、いわゆるモンタージュ派のようなその方向性に勝手に憧れていたのです。
そして今日、エイゼンシュテインをみた後輩に、カッティングが先輩の作品と似てますよと言われてちょっと嬉しくなりました。
私のその作品はアニメなので、1カット長まわしということはできません。
アニメで長まわしなんかやったら飽きるだけですし、キャラを演技させる≒動かさなければならない分、作画枚数が増えてしまいます。
一般的に、アニメのカッティングは、実写よりも大変こったものになっていると私は思っています。
アニメは基本的に固定ショットですし、1カット同じ絵をずっとみせられても飽きます。
あきないように絵を動かす≒キャラに演技をさせると、その分動画枚数が増え、予算もかかってしまいます。
そこで、カッティング、モンタージュ(編集)という概念がでてきます。
たとえば、あるものを発見し手にとる動作を3秒でやるとします。
TVアニメは基本的に1秒8枚、劇場アニメは1秒12枚作画なので、この動きをそのままやれば24~36枚の作画が必要ということになります。
しかし、カットを割ってしまえば、極端なことを言うと、①何かに気づく目のアップカット②ものをもった手のアップ(主人公の主観ショット)の2枚ですんでしまいます(もっとも、ちゃんとやるにはエスタブリッシング・ショットのような状況説明ショットは必要ですが)。
このような理由もあって、アニメではカッティングが実写よりも極めて重要になってくるのです。
その分、個人的なことを言わせてもらえば、実写よりみてて面白いのです(もっとも、細田守さんのようにキャラを演技させる≒カットが少ない≒作画枚数が多いアニメも好きですが)。
映画史的には、(無勉強なので間違ってたらすみません……)グリフィスがロングショットとアップショットを使い分けて、そのアップカットに帯びる意味が無く、意味をもつ役割はすべてロングショットであっただけなのを見直し、ショットとショットのつなぎ、カットの連鎖で意味を形成するようになってきたというのがあります。
素人俳優の目のアップカットを映し、次に例えばナイフを映し、次に後ずさる素人女優を映せば、それだけでどんな名俳優の演技よりも素晴らしい感情と緊迫の表現ができるのです。
この発見は、リアリストからは批判されました。
編集という人の手が介入している以上、1カットで撮ったほどリアルなものではないですし、役者の演技というものを大事にしていないからです。
まあそんな理由があって、アニメ制作している私がモンタージュ主義よりになるのは当然といえば当然なのですが、単にモンタージュ主義という観点でエイゼンシュテインと似てると言われたのではなく、そのカットの使い方というか、例えば目のアップカットを繰り返しはさんだりするところが似ていると言われたので、嬉しかったのです。
まあ私の場合目のアップカットを使う理由は背景を描かなくて済むからという制作上の理由からなんですがねwww
それでもエイゼンシュテイン的な効果をだせていたのならば、制作は簡単かつ効果的であるという点で評価できる演出になると思います。
こいういったことをふまえて私は新房昭之監督の作品群が好きだと公言しています。
湯浅政明監督も好きです。最近やっていた『四畳半神話大系』が好きです。
新房昭之監督の作品群が400~450カットにも及ぶカットで構成されているのに対し、『四畳半神話大系』は多分1本あたり一般的な300カット無いぐらいのカットで構成されているという根本的な違いはありますがが、その『四畳半神話大系』から自主制作アニメに活かせるような、はじめて新房監督の作品をみたときのような、なにか演出の可能性のようなものを感じました。
それに対し実写というものを考えてみると、最近は長まわしの作品ばかりみてきました。
『ユキとニナ』
『蘇りの血』
などはロングテイクが顕著でしたかね。
アニメはカッティングするしかないということがありますが、実写は長まわしという選択ができる以上、監督に求められるさじ加減が難しくなってきますね。
カットの切り方に関しては、もういろんな映像作品をみてみてみまくって、自分の方向性を模索するしかないでしょうね。
映研の新入生にも、そういう観点から映像作品をみてみて、自分の作品に生かせるようになってもらえれば……なーんて自分の演出の方向性がまだ見いだせていないやつがえらそうに言うのもなんですがwww
多分180度ルールを守って状況説明のロングショットと観客がキャラに移入できるようなアップカットを使い分けていればそれなりのものはできると思いますが。
しかし、映像をつくろうと思うのならば、“みる”ことは重要になってくると思うのです。
ので、レポートやらずに今日もアニメをみます……orz
しかしあれですね、ネガティブにとらえればエイゼンシュテインの時代から私は何一つ進歩していないのかなとも感じてしまいます……
もうちょっと工夫というか、なにかアイディアが必要なんですかね……
エイゼンシュテインのカッティングの一連の流れを写真でみたりなんだりして、いわゆるモンタージュ派のようなその方向性に勝手に憧れていたのです。
そして今日、エイゼンシュテインをみた後輩に、カッティングが先輩の作品と似てますよと言われてちょっと嬉しくなりました。
私のその作品はアニメなので、1カット長まわしということはできません。
アニメで長まわしなんかやったら飽きるだけですし、キャラを演技させる≒動かさなければならない分、作画枚数が増えてしまいます。
一般的に、アニメのカッティングは、実写よりも大変こったものになっていると私は思っています。
アニメは基本的に固定ショットですし、1カット同じ絵をずっとみせられても飽きます。
あきないように絵を動かす≒キャラに演技をさせると、その分動画枚数が増え、予算もかかってしまいます。
そこで、カッティング、モンタージュ(編集)という概念がでてきます。
たとえば、あるものを発見し手にとる動作を3秒でやるとします。
TVアニメは基本的に1秒8枚、劇場アニメは1秒12枚作画なので、この動きをそのままやれば24~36枚の作画が必要ということになります。
しかし、カットを割ってしまえば、極端なことを言うと、①何かに気づく目のアップカット②ものをもった手のアップ(主人公の主観ショット)の2枚ですんでしまいます(もっとも、ちゃんとやるにはエスタブリッシング・ショットのような状況説明ショットは必要ですが)。
このような理由もあって、アニメではカッティングが実写よりも極めて重要になってくるのです。
その分、個人的なことを言わせてもらえば、実写よりみてて面白いのです(もっとも、細田守さんのようにキャラを演技させる≒カットが少ない≒作画枚数が多いアニメも好きですが)。
映画史的には、(無勉強なので間違ってたらすみません……)グリフィスがロングショットとアップショットを使い分けて、そのアップカットに帯びる意味が無く、意味をもつ役割はすべてロングショットであっただけなのを見直し、ショットとショットのつなぎ、カットの連鎖で意味を形成するようになってきたというのがあります。
素人俳優の目のアップカットを映し、次に例えばナイフを映し、次に後ずさる素人女優を映せば、それだけでどんな名俳優の演技よりも素晴らしい感情と緊迫の表現ができるのです。
この発見は、リアリストからは批判されました。
編集という人の手が介入している以上、1カットで撮ったほどリアルなものではないですし、役者の演技というものを大事にしていないからです。
まあそんな理由があって、アニメ制作している私がモンタージュ主義よりになるのは当然といえば当然なのですが、単にモンタージュ主義という観点でエイゼンシュテインと似てると言われたのではなく、そのカットの使い方というか、例えば目のアップカットを繰り返しはさんだりするところが似ていると言われたので、嬉しかったのです。
まあ私の場合目のアップカットを使う理由は背景を描かなくて済むからという制作上の理由からなんですがねwww
それでもエイゼンシュテイン的な効果をだせていたのならば、制作は簡単かつ効果的であるという点で評価できる演出になると思います。
こいういったことをふまえて私は新房昭之監督の作品群が好きだと公言しています。
湯浅政明監督も好きです。最近やっていた『四畳半神話大系』が好きです。
新房昭之監督の作品群が400~450カットにも及ぶカットで構成されているのに対し、『四畳半神話大系』は多分1本あたり一般的な300カット無いぐらいのカットで構成されているという根本的な違いはありますがが、その『四畳半神話大系』から自主制作アニメに活かせるような、はじめて新房監督の作品をみたときのような、なにか演出の可能性のようなものを感じました。
それに対し実写というものを考えてみると、最近は長まわしの作品ばかりみてきました。
『ユキとニナ』
『蘇りの血』
などはロングテイクが顕著でしたかね。
アニメはカッティングするしかないということがありますが、実写は長まわしという選択ができる以上、監督に求められるさじ加減が難しくなってきますね。
カットの切り方に関しては、もういろんな映像作品をみてみてみまくって、自分の方向性を模索するしかないでしょうね。
映研の新入生にも、そういう観点から映像作品をみてみて、自分の作品に生かせるようになってもらえれば……なーんて自分の演出の方向性がまだ見いだせていないやつがえらそうに言うのもなんですがwww
多分180度ルールを守って状況説明のロングショットと観客がキャラに移入できるようなアップカットを使い分けていればそれなりのものはできると思いますが。
しかし、映像をつくろうと思うのならば、“みる”ことは重要になってくると思うのです。
ので、レポートやらずに今日もアニメをみます……orz
しかしあれですね、ネガティブにとらえればエイゼンシュテインの時代から私は何一つ進歩していないのかなとも感じてしまいます……
もうちょっと工夫というか、なにかアイディアが必要なんですかね……
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