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絵が下手な素人理系学生が自主制作アニメをつくる もっと探求したいと思い近くの美大予備校へ通う アニメーションを専攻できる大学院試験を受ける←今ここ そんな感じでいろいろと迷走するブログです。 ブログのタイトルが定まっていないのでちょくちょく変わると思います。 よろしくお願いします。
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うちのサークルが協賛させていただくことになった映画祭のチケットと案内が届きました。
みると、少年同士の同性愛的な意匠が撮られ、ちょっと前に自主制作映画界を風靡した、片岡翔監督『くらげくん』が上映されます。
私もまだみたことがないのですが、多くの人々を魅了したこの作品を、いつかみてみたいとずっと思っていました。
予告編だけを何回みたことか。ようやく夢がかないそうです。

私をみたほとんどの方は私のことをセクシャルマイノリティの類だと思うでしょう。
初対面の人には性別を間違えられますのでね。
そして恋愛対象も男でも女でもという、いわゆるバイセクシャルです。

そのようなことがあって当然のように、私もセクシャルマイノリティを題材にした作品を制作していたことがありますが、最近、同性愛をカセに使うことはどうなんだろうと、自分の中で疑問符がつくわけです。
同性愛的な作品や撮られている方を非難するわけではありません。
何というか、もっとそれらをとりまく構造に目を向けたときに、自分の中でふに落ちない部分があるのです。

わかりやすく、ゲイやレズビアンなどの同性愛を題材にした作品をあげると、
それだけで完結している映画というか、同性愛は社会的にタブー→つらいね悲しいね、という流れだけで成り立っているような映画はどうかと思うのです。
「カセ」というのは足枷などからきたシナリオの基礎技法の用語です。
二人の愛がテーマなら、短絡的な例ですが、ヒロインを病気にしたり、身分・階級の違いなど、2人を引き裂いてしまう設定をつくるのです。
同性愛であるということを、この「カセ」として使う、それは、「今」がみえていないというか、意匠として短絡的すぎるのではないかと思うわけです。

たぶん、同性愛者であることは、経験上、それほどの苦にはなりません。
しいて言えば、その結果生まれてくる、結婚が認められない、親族の批判、などの周りとの違和が苦になるのでしょうが、まあ私やその周囲をみているとそれもそれほど苦になっていないと思いますが、それを描いているうちは、それが映画の「カセ」として成り立っているうちは、同性愛者の本当の解放はないと思うのです。
その映画をつくることによって、同性愛を「カセ」として成り立たせているのですから、同性愛という枠組みをタブー視する社会の延長上で、それを助長しているようにすら思えるのです。

監督は何を思って同性愛を撮るのでしょう。
同性愛者たちの解放のため?
もしそうであれば、それをつくり、それが同性愛作品として受け入れられているうちは、本当の解放にはつながらないと思うのです。
同性愛がカセとなっている映画をみて、もし共感したとして、それでその方をとりまく環境は変わったのでしょうか。
あるいは、いまではありふれた同性愛のカセを描くことによって、社会に波紋を生むことができるでしょうか。
結局、何も変わらないのでは、という疑念がつきません。

極端に言うと、同性愛が、「カセ」として成り立たなくなるぐらいまで、社会に同性愛というものが常識になって、同性愛を描いたから荘厳であるかのようなそれが無くなるぐらいまでになって、はじめて解放があるのではないでしょうか。

上の物言いについて極端だとは自覚していますが、すると、同性愛というものを題材にして、社会のタブーに触れ、表層ではそれを批判し、内ではタブーに加担し、厳格な雰囲気をまとわせようとするそれは、無批判に同性愛を題材に選ぶことで、あまりにも短絡的すぎる、ということです。

レズビアンやゲイ、セクシャルマイノリティを題材にした作品だけを募集/上映する映画祭はけっこう存在しています。
私はまだ参加したことがありませんが、現状がどのようになっているのかを知っておきたいので、近いうちにそういったイベントに参加したいと思っています。

アニメでは、百合やBLなど、当然のように描写される、あるいは受け手がそういった想像を楽しむ、という形で浸透しています。
アニメや漫画、2次創作の同人誌、それらを受け入れるオタクや腐女子などにおいては、ゲイやレズが当然のように描写されていて、それらをジャンルとして便宜上、百合、BLと呼んでいるにすぎないように思えます。
そこに描かれているのは当然のように行われる同性愛行為で、映画がやる、同性愛だからといってつらくてタブーにふれたような荘厳さは、少ないように思うのです。
もっとも、腐女子の心理として、社会的タブーが行われることに興奮するということは大いにあると思っています。

注目したいのは、同性愛を描いただけのこれらの同人誌やそれをとりまく方々を、801、「や」まなし「お」ちなし「い」みなし、などと自覚的に呼ぶことです。
同性愛を描くことが、山なし、落ちなし、意味なし、として扱われているのです。
そうすると、同性愛を題材にそれを荘厳たらしめているだけの映画というものは、私のような人間からみれば、山も落ちも意味もないわけです。

各種映画祭で実績をつくっている、片岡翔監督『くらげくん』には、それ以上のものを、見出せる気を、みる前から勝手にしています。
私が苦しみながら目標にしている映画祭というものは、そんなものではないはずであることが分かっているからです。

私は、アニメを中心にやっていますが、作品で百合やBLのような表現をするのかというと、それも短絡的だと思っていますので、やらないと思います。
個人的に楽しむことはあっても、映画祭などに出品するような作品では、根本を疑うようなものをつくりたいと思っています。

たぶん、「セクシャルマイノリティのための」映画祭、というものが行われているうちは、まだ、駄目だと思います。
もちろんある時期にはそういったものも必要だと思いますが、最終的には、普通の男女のラブストーリーと同じような具合になっているようなことを、根ざしているものが深すぎて途方がなくても、目指す方が、有益だとすら思います。

これは私の現時点考えうる手段であって、他にも方法はあると思いますが、ようするに、どんな手段でも、セクシャルマイノリティを語っただけで成り立つようなレベルからはいい加減次の段階にすすみましょうよ、ということです。

普通の映画祭なら普通の映画祭で、募集要項の「公序良俗に反するもの」「政治的なもの」という募集禁止の規定が悩ましい限りです。
同性愛を荘厳に描いた実写映画なら、「公序良俗に」反せず、受け入れられるでしょう。
では、アニメで百合やBLを描いたらどうでしょうか。
私は、アニメで同性愛を描く場合、そういった垣根の間をつくようなことを、していきたいと、ぼんやり考えるのですが政治的なものとなってNGになるかもしれません。
名作に、少しも政治的でない映画が、一体どれほどあるでしょうか。

私が作品をつくって映画祭にだすことに今多くの時間を使うのは、映画祭の他の出品作と争いたいわけではなく、そういった構造や制度を成り立たせているそれに、石を投げていきたいわけです。
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