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最近ちょっとだけサイトに来てくれる方が増えた気がします
今は作品鋭意制作中です
進捗状況はよろしくありません……
画塾は、受験課題のクロッキー。
石膏像を端から描いていきましたが、
ひどい出来。
これは
ひどい出来……
そんなんでいろんなの描いて、それからデッサンをちょっとして先生と進路の話。
やっぱり提出作品アートアニメーションの方がいいのか……
今は映画祭とかコンテストだすのでそれにあわせエンタ―テイメント寄りのつくっていますが、
アートの方がいいよなそりゃあ……
うーん、今年はこれから4、5本つくって映画祭なりコンテストなり出す予定なんですが
スケジュール無茶すぎるかなあ……
ぼくはアニメーションがやりたいんじゃなくて、アニメーションの技術を使った映画がやりたいので、ちょっとそのへんが進路考えたときにずれているのかもなあ。
夏季講習受けることにしやした。
お金振り込んでこなきゃ。
制作の時間もっと集中しなければ……
映像系の大学院に、アニメーションを学べる大学院にいきたいと思っているので、これからは大学院試のためのデッサン。
試験の実技はポートフォリオ(10分以内の映像添付可)と1時間のクロッキーと、2次試験は4時間の絵コンテ制作ですが、デッサン練習はおおいにプラスなはず。
石膏像の右目を細かく描く。ひたすらそれに5時間かけました。
今までは一般コースに週一で通っていましたが、これから親と相談して、OKがでたら受験科にいくかもしれません。
にしても、画塾のカリキュラムと個人的な制作予定が合わないので、どうなるか……
そしてまず無事卒業できるのか……
いままでは荒々しい線で濃くざっくりあたりいれてましたが、淡く薄く線というよりもぼけた感じに入れることをすすめられました。
私のデッサンはいつも荒々しかったので、今日の経験をこれからに活かしたいです。
そして、1次試験の提出用の作品もつくらねばなりません。
大学と、制作と、画塾での入試対策。うまくやっていかねば。
8月から1ヶ月かけて3分の作品を制作です。
大学はテストでした。
なんで地質科いるのとみんなに聞かれるぐらいには地質学生として不出来なため、ぼろぼろです。
その前に休み過ぎて駄目です。
別に忙しいとか、アニメが響いてるとかじゃないんです。
最近は漫画描いてます。
本当に下手糞ですが、WEB漫画として自サイトにアップするなり、映研ともう一つ所属している総合芸術サークルの、学内にくばる予定の、新しいフリーペーパー的な会誌にのせるなりするかもしれません。
アニメより楽かと思っていたけれど、とんでもありませんでした。
アニメなんかより数倍うまくいきません。
映研の話です。
純粋な映研ものって『あどりぶシネ倶楽部』ぐらいしか知らないもので。
読んでわかる偏って間違った映画技法というのと、アフタヌーン愛読者なので、四季賞的な、青年期の青青しい感じ、多感な時期の葛藤のようなものを、からめていこうと思っています。
画力は圧倒的に足りませんが、下手なりにやっていきたいです。
アニメとの兼ね合いもありますが……
全体の構成ができて、15話前後に落ち着きそうです。
それでも、毎日描いたとして半年~2年はかかるとおもいます。
短編~中編の実写でいけそうな気もしているので、実写で撮りたい気もしますが、ちょっと一か所だけ女優さんに下着もしくはタンクトップぐらいにはなってほしいところがあって、しかし学生映画なんてそんなことあまりできそうにないので、やっぱり漫画がいいのかなあと。
全体の構成ができてる分、はやく描きたくて仕方がないんですが、体と技術と予定がついてきません。
画塾の時間も増やさなきゃあだしなあ……
だいぶ荒っぽい描きこみですが……
その後、私の手の型をとっていただきました。
この型をとられる側の体験を一度しておくといいといいと、いつも教えてもらっているK先生とは別のN先生。
この経験は、たぶん決定的に私の考える映像の方向性を示唆してくれた気がします。
以下、facebookにかいたものを張り付けてみます。
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思ったことを書き綴っているだけなので論理的に破たんしている部分がみられると思う。
自分の身体イメージとしての身体の感じ方、捉え方は、多分男の中でも人一倍、主体的である気がしてならない。
前にmixiの方で日記に書いたことがあったけれど、男は人生の節々で身体の変化が女に比べて非常に抽象的で、だから身体の像としての捉え方・感じ方というものに鈍感な印象がある。
それゆえに、男の身体観というものは、非常に主体的なものなのではないかと思うようになった。
自分が男で、そうだからというのもある。
それに比べ女は、身体は人生のイベントのうちに何度も変化するし、内からのイメージというものを受け入れなければならない。さらには、そこに社会的な制度が加わる。脱毛、化粧……
私なんぞ、極端なことをいえば、医者や痴漢に身体をみられたりふれられたりしようものなら、死んでしまう。
身体測定ですら敬遠するレベルだ。
しかし、男の私よりも、身体に対して敏感であれと社会的に構成されてきたはずの、女の方というものは、そんなことを気にしていたら(ショックの有無はどうあれ)、生きていけないから、それを受け入れなければならない。
そうなると、身体というものに対しての自分のかかわり方が、非常に述語的になるのだと思う。
女の強さと現実性は、そのへんに根幹があるのではないか。
気持ち悪い話だけれども、オタクに多いとされる処女幻想は、この男の主体性というものが、ひとつ関係しているようにも思えてくる。
例えば、『クラナド』での出産についての描写は、徹底的に男というものが排除されている。
あれだけ病弱な渚が、「男」の権威がはびこっているはずの大病院には行かず、自宅で出産することを決意する。
そのときに立ち会う助産師さんは、女である。
そして出産のときがくると、男は、夫である朋也ですら外に出される。
男視点でみて、そうとう気持ちのいいものであるように、つくられている。
もとが男向けのエロゲ/ギャルゲの類だからかもしれない。
たちあった助産師さんが男だったら、NTR属性でもない限りは、みていて気持ちのいいものではないだろう。
映像をつくるにあって、一度、男の主体的な論理を、女の主人公に投影して、つくろうとしたことがあったが、ようするに女の主人公が、主体的であり述語的になれず、身体測定なり検診なりの社会的なイベントを乗り越えることができず、自殺してしまう話だった。
あのときはたぶん、主体というものを確立しようとしなければ、やっていけない時期だったのだと思う。
地元の医者には、PTSDと、あとは忘れたけれど他のいろいろだと診断された。
過去に大きな性犯罪にあった時の、トラウマ性、心的外傷後ストレス障害だと。
なるほど、拒食に自傷、無力感に希望の喪失、睡眠障害、集中困難、それをこじらせ併発した幻視に幻聴、首吊りに練炭の自殺未遂、その他もろもろの現象は説明がつくのだろう。
私は自分のイメージというものをつくろうのに必死である人間だから、誰にも何も言えなかった。
しかし暴露するのも治療法の一つだという。
今の医者には症状以外のなにも言っていない。
地元の医者に行った時の、対応に疑問をもったからかもしれない。
私はそこまで物事に対応できるほど器用な術語性はもちえていないのだ。
だから主体という幻想にすがる。
医者に肌をみせることすら拒絶してしまう、肌をみせることが苦手な私が、この前画塾にて右手の型をとられても何とも思わなかったのはなぜだろう。
一枚一枚、ボンドの塗られた紙を手に貼られていく。
自分の身体の形が、摩擦で浮き彫りになっていく。
気化熱で、体の熱が奪われ、ドライヤーを当ててかわかしているのに冷たいという奇妙な体験をする。
切り離すときは、脱皮のような感覚になる。
とれた真っ白な型は、自分の抜け殻のような気がした。
先生たちは型を取りながら、治療に似ている気がするという。
地元の医者に感じた不快、画塾で何事もなく平気だった平然さ、その違いはなんなのだろう。
地元の医者は、私をみずに既存の病名にあてはめ、この薬を飲めば治ると、終始主語的な対応だったのではないか。
画塾の先生は、私の体に一枚一枚紙を貼っていくという、述語性を繰り返した。
述語性によって主体を覆い隠したのではなく、主体が心地よくあらわれることができる環境をつくってくれた、それがよかったのかもしれない。
白い自分の手の型をみるたびに不思議な気持ちになる。
ちょっと脱皮出来たのかもしれない。
だから、みる人が限られているけれども、こんな話ができるようになったのかな。
これから考える土台としようと思う映像の方向性を、物語ではなく演出の方向性を、今一度ぶれずに設定できる気がする。
映像文法と「主語を抹殺した男」三上章さんによる日本語文法を照らし合わせ、その述語的側面から、映像文法について考える、そのときに、主体を消し去ったらいけない。主体が表出できる環境をクリエイトできる映像文法が、求められる。
このときに主体のレベルをどこに設定するのかは、いまだ悩むところにある。
主体を主人公に設定し、彼が映える文法にする、これは簡単である。
主体を観客に設定したときに、問題が困難になる。
観客は主人公に感情移入しますという大前提を揺るがさなくてはいけない、そのためには、感情移入できなかったとか、そういうレベルを超えなければいけない。
感情移入というものは、映像技法によって方向づけられる作り手側の主語的なもので、だから主体を主人公に設定したときの文法は簡単だという気がしている。
だから、主体はきっと主人公にも観客にも設定してはいけないのだ。
ここまでは実感として、今のところある。
ここから場所主体という言葉の自分なりのつかめそうな感じが、最近薄れている。
山本哲士先生のブログを読んだ。
以下、山本哲士先生のブログ、『ホスピタリティの場所【山本哲士公式ブログ】hospitality/place/capital』からの引用である。
「述語的な場所づくりというのは、主体を消し去ることではない、主体が表出しえる環境をつくりだすことだ、それには主体主導と客体依存は消していかねばならない。
述語的な表出とは、団結力でも組織力でもない、それは結果そうなるだけで、相反するもの、非団結、非組織が、同時作用している状態でもある。神の目ではなく、虫の目の動きである。
カナダから、『英語にも主語はなかった』『日本語に主語はいらない』の著者、金谷武洋氏が来たので、お会いした、主語なき日本語論を明示されているが(拙書『哲学する日本』においてとりあげている)、はじめてなのに意気投合した、いまこそ「述語制」の世界表出をしていこうということになった。S+V+Oの、神の目線の言語思考はSOVO(粗暴)になるだけだと、ダジャレする愉快な方であったが、2年以内に、国際会議をやろうということにした。主語・分離思考技術による世界設計をこえていく述語・非分離・場所の世界設計を、提言していくことだ。」
引用終わり。
今読んでいる三上章さんの本が終わったら、金谷武羊さんの本を読んでみようと思う。
「神の目」「神の視点」という表現は、映像でもよくつかわれる。
アニメ『ef』においては、千尋の「かみさまがいじっているみたいじゃないですか」という発言で、自分の物語の終わりを決めて描くというシーンで、メタ的な発言がなされた。
『ef』のあの長まわしの多さと、モンタージュの融合は、ひとつの答えを示唆しているのかもしれない。
しかし、吉本隆明さんが「小説は着飾った服、詩は骨格」というように、私が今やろうとしている、長編映画を服に、短編映画を詩にみたて、映像の骨格を探求していこうという試みには、長まわしは使わないことに決めている。
映像の、とりわけ私が探求したいアニメの骨格は、予算や人員、技術、既存の制度などに述語的にかかわっていた結果、モンタージュというものを無視することはできず、もっと別なところにみいだせるはずだという気がしてならないからだ。
映像の骨格、漠然としていて、難しい。
ただ、もっぱら自分の興味は、ここにある。
長まわしではない何かに、述語制の骨格を、見出したい。
この文章中でも、だいぶぶれたけれど、かきなおすより、このまま思考回路を残しておいた方がいいと思い、そのままにしようと思う。
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身体と、言語と、映像と、美術が、つながっていく気がします。
個のあと時間があったので、花のスケッチをしました。
毎度のことながら、花は苦手ですが、前に指導いただいたところを思い出しながら描きました。
構図はだいぶ失敗しました。
その後、この前お手伝いさせていただいた先生の作品について、インタビュー動画がネットに掲載されたということで、一緒にみました。
とても刺激になりました。
またみかえそうと思います。
その後進路相談です。
映像系の大学院受けてみようと思うのですが、実写に行くかアニメに行くかです。
はやいところ、夏休み中だけでも、親にも相談して画塾の回数をあげて、絵の練習をしまくっておかないと、結果的に選択の幅は狭まってしまうので、準備ははやくしておかないといけませんね。
貴重な日でした。
いわゆるクランクアップというやつです。
編集はおわたので、これからは音響作業になります。
反省点と課題の残る作品でした。
はやくも次の作品の絵コンテ描いてみましたが、筆が止まってしまいます。
イメージが浮かんでこない。
1分作品、7月中にもう一本つくれたらいいなあと思っています。
とりあえずサークルの会誌の表紙とかつくらねば……
地震やら英語論文やらで3週間ぶりにみたので、時間を置いてみて、客観的にみれたのでしょうか。
今回は前回やったロダンのつくった石膏像のデッサンの続きですが、
右目から頬にかけてのアウトラインに悩み、1mmぐらいせばめてみるも、どうもしっくりこない。
鼻も若干長い気がするけれど、ここまで描きこんであると、修正したくない、動かしたくない。
右目の描きこみはうまくいった。
髪の毛は悩み過ぎて手の着けようがない。
額のラインのおかげでなんかバランスがおかしい。
引いてみるとまとまりがない。
などと思いながら描いていたわけです。
先生は描き講習も始まり受験生も増え忙しそうで、なかなか見てもらえませんでした。
最後に、忙しくてごめんねと言われ、みてもらったのですが、
「右目から頬にかけてのラインは正確にはかったら1mmほど外側の方にいくかもね。
鼻は若干あれだけれど、ここはポイントだから動かしたくないね。
右目はすごくいいね。
鼻をポイントにはかると、額~右目~頬のラインが若干外になってくる。
あとは髪の毛だね。(私がフーコー好きなのを知っていたのでフーコーを例に出し)知のパースペクティブ、遠近法だよね。解釈というか、理解の仕方というかさ。幾何学でみていくときの、視点の置き方だよね。(先生は彫刻科だったので)四角い粘土をドンと置いて、それを変形させてつくったんだろうね。だからこういう見方をしていくと、ここはこうなって……
先生にデッサンみられただけで、すべて私の思考が筒抜けになりますね。
かないません。
視点の置き方の解釈に苦しみつつも、先生の視点のように捉えていくと、髪の毛が自然とできてくる。
先生も「急によくなったね」と。
もう少しで完成と言われましたが、書き込みが雑すぎるので、もっと緻密にしたいところ。
緻密にしたくてもできないので、練習したいところ。
今週は大学の関係で忙しかったのでお休みです。
来週からですね。
7月からは新作つくりはじめました。
1分程度の短編です。
クリスチャン・メッツに代表されるように、映画を言語学的にとらえるやり方を、
吉本隆明の「小説は着飾った服、詩は身体の骨格」というたとえのように、
長編映画を小説、短編映画を詩とみたて、
短編をつくることによって映画文法の骨格を探求していこうという試みです。
なので最近は、言語学や日本語文法、映画記号学や詩学に傾倒しております。
主に構造主義によって発展させられたそれを参照しています。
ここで考えた理論は、これからの自分の制作の土台にしていくつもりです。
考えたことは、facebookの使い道に困っていたところなので、facebookのノートにまとめていこうかなあと思っています。
短編なので数日間でつくれてしまいます。
ブログを書くkように、イメージをメモするように、アニメーションをつくって動画サイトに投稿できたら、素敵だなあと思うのです。
ピカソは、その生涯で大量の絵を残しています。
これが、ピカソの絵をみるときの圧力だと村上隆さんはおっしゃっています。
自主制作アニメは、商業アニメと比べたら動かすことに多大な労力が必要ですし、どうやって圧力をだすかと言ったら、ピカソのように量産するのも一つの手段ではないでしょうか。
アルカンという作曲家が、クロッキーやスケッチと称して、短くて大量の曲を残しています。
また、画塾でもクロッキーをやりました。
これらを活かせないかと考えたところ、
上記のようなコンセプトで、『クロッキー』シリーズと題して、イメージを書き連ねたような1分程度の短編アニメを量産していこう、という試みを思いついたわけです。
7月中はそうやっていきます。
8月からは、コンテストを見据えた3分程度の短編を2本ほどつくっていきます。
クロッキー1枚目は、『グレゴヲル』
今4分の1できたぐらいですかね。
最近は大学の英語論文発表があって制作できてませんが、月曜までの辛抱です。
単位も危ないので、大学のことを優先しつつ、やっていこうと思います。
画用紙に描きます。
最初構図に困り、先生に修正を入れてもらい、形をはかりながら平行を探し、形の延長で探り、対角で捉えていきました。
それを続けていくと、自然とできていきます。
形も構図も完璧だと言われました。
今度はもうちょっと形を探求してみようと思います。
3時間ほどでクロッキー帳にざっくり描いたものですが、かなり形があってる、似てる、リアルになった、と先生。
ずっと水彩やっていたのに、前よりうまくなっていて、なにがきいたんだろう、模写かな?と。
私としては最初は実感はわきませんでしたが、確かに前のように先生に形に関してそれほど修正入れられることもなくなりました。
アウトラインに関して前ほど悩むこともなくなりました。
最初のころはアウトラインばっかり何回もなぞるように描いていて、そこに線があるという根拠もなく、しかし何か違うけれど何が違うかわからない、最初に陥りがちな光景になっていましたが、昔先生がいっていて自然とアウトラインは決まるということがなんとなくですがわかったような気が。
本当に自然とアウトラインができました。
来週から多分7~10時間ぐらいかけて画用紙に描きます。
それとまだその段階じゃないかもしれませんが、抒情か精密か大胆か、石膏デッサンといえど、絵としての方向性をだしたいなあと思っています。
今のままだとすべての中間のような、適当な印象なので、方向性をはっきりしたいです。
とりあえず今回学んだことは
1平行を探す
2対角で捉える
3形の延長でさぐる
石膏デッサンは、形を正確に写し取るところは、理論づけのような気がします。
三画や四角で面どって、ポイントを決定するだんだんわかってきたつもりになっていますが、実際新しいモチーフをみると、先生に指摘されるまでその理論づけする見方というか視点の置き方に気づきません。
いずれはまた着彩やると先生はおっしゃってますが、石膏デッサンやりたいですねやっぱり。
美大予備校の方はまず円柱とかやるんですが、私一般なのでそれすっとばしてますし、やはり基本からやりたい。
でもたまに落書きで二次元絵描いてみて、なぜか画力があがってたのは石膏デッサンやってた時よりも水彩やってたころ。
不思議なものです。
みんなで集まって描いて講評いただくということが今までになかったですし、クロッキーというアニメ制作に欠かせない要素を練習できましたし、新鮮でした。
クロッキーは大学のアニメ科なんかの実技試験だったりするほどです。
月1ぐらいでやるそうなので、継続的に参加していきたいです。
毎週土曜に開催されているデッサンの無料講習会も参加してみようかなあ……